こんにちは、笠井です。
私はよく山に登ります。好きなんです。
圧倒的に大きな自然に抱かれているとき、私はとても安心します。
日々積もっていく葛藤や、自分への嫌悪、それを隠そうとする仮面。
広大な自然の中には、そうしたものを簡単に溶かしてくれる包容力があって、何重にも重ね描きした自分の輪郭がすっとまとまり、素直になれる。
とはいえ、足場の悪い急勾配が続いていると、いい気分ばかりではいられません。
息が上がり、視線は足元ばかり。景色を楽しむ余裕もなくなり、ついスマホを取り出して、画面の中の現在地ばかり確かめてしまいます。
気づけば、頭の中は考えごとでいっぱいです。
「来週のブログはこんなテーマにしようかな」とか、いまは会えずにいる息子のことを思い出して、「元気にしているかな」「この景色を見せてやりたいな」と胸の内でつぶやいたり。
考えごとや空想が悪いわけではありません。だけど、せっかく山に来ているのに、目の前の景色から心が離れてしまっているのは、やはりもったいないなと思うのです。
そんなとき、私にはひとつ小さな知恵があります。
「ありがとう」と、ひたすら唱えること。すると、不思議と頭の中のもやが晴れることがあるのです(もちろん、できないときもありますが)。
目に映るもの、片っ端から「ありがとう」を伝えていきます。
目の前の木に、「ありがとう」
花に、「ありがとう」
今日の晴天に、「ありがとう」
人の手で整備された山道に、「ありがとう」
すれ違う登山者に、「ありがとう」
道標にも、山靴にも、美しい景色にも、スポーツドリンクにさえ。
そのうちに、
急勾配に、「ありがとう」
足を掬われた浮石に、「ありがとう」
ついには、倒れそうになったときに踏ん張ってくれた自分の足にまで、「ありがとう」と思わず口にしてしまうのです。
そうして全方位に「ありがとう」を伝えていくうちに、不思議なことに、思考の世界から抜け出して、「いま、この瞬間」を生きている現実の世界に戻ってくることができます。
今日は、思考やイメージの世界に囚われたときに役立つ、そんな「ありがとう」の使い方をお話ししてみたいと思います。
◆二つの世界――「現実の世界」と「自分ひとりだけの世界」
よく耳にする「マインドフルネス」という言葉も、要するにこの、いま目の前の現実に立ち返る感覚のことなのだと思います。
こんな言葉がわざわざ生まれるくらいですから、私たちが普段、この瞬間に集中して生きていくのは容易ではないし、現実をどこか歪んで見てしまっているのかもしれません。
たとえば、妻と盛り上がって、笑い転げているとき。あるいは、好きなアーティストの音に身をゆだねているとき。
そんなとき、私は余計な考えごとなどせず、自然に「いま、この瞬間」を生きています。
でも、なぜ常にそうしていられないのかを考えてみると、そこには「不快な感情を避けたい」という心の働きが自然と起きるからです。
山の急勾配を登っているとき、疲れや苦しさを直視し続けるのはつらくて、頭の中で別のことを考え始めてしまっている。
それは登山に限ったことではありません。
誰かに言われた何気ない一言が引っかかって、帰り道に「あのとき、こう言い返せばよかった」「なんであんな言い方をするんだろう」と、頭の中でずっとひとり反省会を続けてしまうことはないでしょうか。
良くも悪くも、そうしているあいだは、目の前の現実からは離れられているわけです。
私たちは「現実の世界」に生きているつもりでいながら、同時に心の中に「もう一つの世界」を作り出しています。
そこは、「自分による、自分のための、自分の世界」です。
考えごとや空想に登場する人物も出来事も、結局は自分がつくり出したもの。
それが自分を脅かすものであっても、恍惚とさせるものであっても――すべては、自分の心の中で完結しています。
それはまるで夢のようで、結局そこにいるのは、自分ひとりだけ。いわばその世界では、自分は「小さな神様」になるのです。
もちろん、「自分ひとりの世界」が悪いわけではありません。
夢を見るのと同じで、人間が心のバランスを取るために欠かせない働きですし、そうした静かな場所から、ふと思いがけない発想が芽吹くこともあるでしょう。
ただ、厄介なのは、「自分ひとりの世界」で過ごしているとき、現実のほうを「心ここにあらず」のままやり過ごしてしまうことです。考えごとをしながら運転していたら、いつの間にか目的地に着いていた――そんな経験に似ています。
「ひとりの世界」に留まっているあいだは、現実のほうではなかなか変化が起こりません。
そして不思議なことに――私たちは、「現実」と「ひとりの世界」を行き来しすぎているあまり、その境目が曖昧になっている。まるでひとつの世界のように感じてしまうのですが、実のところ、それはまったく性質の違う世界なのです。
◆世界を自分の色で塗りつぶすとき
「現実」から「自分ひとりの世界」へ移るとき、それはゆるやかな変化ではなく、まるでチャンネルを切り替えるような、はっきりとした移行です。
ふと気づけば、現実の手触りから離れて、頭の中の世界に沈み込んでいる。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
その背景には「怖れ」という感情があります。
怖れとは、「私は愛されないかもしれない」という感覚と言ってもいいでしょう。この感覚が大きくなると、私たちは無意識のうちに現実を遠ざけ、「ひとりの世界」へ没入してしまいます。
たとえば、職場で誰かがあなたに攻撃的な態度をとってきたとします。
日々その状況にさらされていれば、相手の表情や声色に過敏になり、ひとつひとつの言葉の裏を読もうとしてしまいますよね。
「この表情は私を陥れようとしている」「この声色は私をバカにしている」
だけど、それはすべて「自分だったらこう感じる」という思い込みをもとにした解釈にすぎないのです。
当たっているかもしれませんし、ハズレているかもしれません。でも、それは問題ではないように感じます。
その瞬間、私たちは世界を自分の色で塗りつぶしてしまっている。そうして気づけば、そこが「ひとりの世界」なのかもしれません。
追い詰められているときほど、不思議なことに、本当は味方でいてくれる人の眼差しさえ疑わしく映り、差し伸べられた善意を透明人間のように扱ってしまうことさえあります。
そうして気づけば、大切にしたいはずの関係まで、自分の手で切り離してしまっている。
けれど――それは、やはりもったいないことです。
◆「ありがとう」という境界線
「ありがとう」という言葉は、切れてしまった糸をもう一度つなぎ直そうとする、意思の表示なのです。
「感謝しなさい」と言われて心から感謝できるなら、誰も苦労はしません。気持ちは、頭で命令しても動かないからです。
でも、「ありがとう」と口にするとき、私たちは自然と顔を上げ、目の前の何かに視線を向けます。気持ちはすぐに変えられなくても、視線を向けて声を出すことは、いつだってできる。
もともと「ありがとう」という言葉は、「有り難し」からきていると言われます。
古語で「滅多にないこと」「あり得ないほど貴重なこと」という意味です。
私たちは普段、いろんなものを「そこにあって当たり前」だと思い込んで生きています。
隣で笑っている人も、仕事も、履いている靴や足元の石も、そして自分の体でさえも。自分と、自分の外にあるものとの境目がぼやけて、すべてが「自分の一部」のようになってしまっているんですね。
自分の一部だと思っていると、感謝ができないばかりか、あてが外れれば怒りすら湧いてくる。
でも、「ありがとう」と口にするとき、私たちは目の前にあるものを「自分とは別の、当たり前ではない存在」として認めています。
自分の外側に確かに何かが存在していると気づくからこそ、自分と世界のあいだにもう一度線が引かれ、「私」という輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのです。
線を引くことは、冷たく突き放すことではありません。
「私」と「あなた」の輪郭がはっきりするからこそ、私たちは本当の意味で、世界とつながることができるのです。
山道を歩いていて、一歩ごとに支えてくれる岩や木の根に「ありがとう」と言うとき。
石や木の根は、私を言葉で励ましてくれるわけではありません。ただ、そこに静かに存在して、私の足を支えてくれているだけです。
でも、「ここに岩があってくれる」「この根が張ってくれている」と気づいて声をかけたとき、私は頭の中のぐるぐるした世界から抜け出して、足の裏にある確かな現実にピントを合わせています。
人間関係で苦しい状況の中でも、ふと誰かの善意を見つけて「ありがとう」と言えたとき。それもまた、ただの言葉ではありません。その瞬間、私たちは「ひとりではない」と気づくことができます。
「ありがとう」から始まるその気づきは、「ひとりの世界」から「ひとりではない世界」――つまり現実へと私たちを引き戻してくれる、小さな魔法なのかもしれないと、私は思っています。
◆どちらの世界に心を置くか
私たちは、二つの世界を行き来しながら生きています。
実際には、二つの世界は同時並行的に存在しているのかもしれません。ただ、私たちの意識は、一度にどちらか一方にしか焦点を合わせられない――そんなつくりになっているように思います。
「現実の世界」と「ひとりの世界」
どちらか一方にしか生きられない人はいません。
だからこそ、どちらの世界に心を置いていたいのか。
その選択は、いつだって自分の手の中にあるのです。
感情が追いつかなくても、かまわないのだと思います。
私もときどき、心が追いつかないまま「ありがとう」と口にしています。
けれど、そんなときほど、山道で踏ん張ってくれた自分の足に「ありがとう」と言えたときのように、世界と再び関わっている実感が、ふっと戻ってくるのです。
外の世界があるから、私はここにいることができるのかもしれない。
「ありがとう」と言うたびに、私はそのことを思い出すのです。
読んでくださり、ありがとうございました。
笠井 大雅

